「敵も味方もない」の真相~今の世の中ではそういう考え方はしないほうがよい~
- acousticlife111
- 2022年3月1日
- 読了時間: 6分
スピリチュアルなメディアではよく、「敵も味方も存在しない」「悪などは存在しない」「すべての人々は一体です」といった表現を使います。
これは、ある意味では間違っておらず、こうしたことを知っておくことも大切ではありますが、しかし今の世の中においては、「敵も味方もない」「悪など存在しない」という考え方はしないほうがよいです。
「敵も味方もない」とは?ワンネスのこと。
「敵も味方もない」といった概念は、すべての存在がもとは一つの霊体であるという、いわゆる《ワンネス》の原理を説明するときに用いられることが多いです。
《ワンネス》という概念は事実で、あるレベルから見れば私たちはすべてのあらゆる存在が1つのものです。一つの身体の無数のパーツ、または一つの身体の無数の細胞のようなものなのです。
「敵も味方もない」は正しく説明されていない!
このような事実は、《博愛精神》の重要性を説くときにはわかりやすく、また重要なことかもしれません。しかし、今の世の中を生きるにあたっては、あまり採用すべき概念とは言えません。「敵も味方もない」を説明する人(守護存在)たちは、説明があまり上手ではないのです。またはそもそも認識が間違っています。
アセンション文明で暮らすなら「敵も味方もない」と思っていたほうが良い。
たとえば、アセンション文明においては、「敵も味方もない」ということに疑いを持たずに暮らしたほうが良いです。その地では悪意で何かをする人はおらず、怠ける人もいないため、一見すると悪事に見えるようなことをしている人がいても、批判する必要も裁く必要もありません。
あなたから見て役立たずに思えても、あなたのためになることをしている可能性は高いです。
または、彼は何か、自分の成長に必要な特殊なことに取り組んでいるか、他人の成長のために厳しさを見せているか、新たな概念の開発のために試みをしています。いずれにせよ、「悪だ」と思う必要はないのです。
今の社会では、悪意や怠惰で行動している人がとても多い・・・。
しかし、今の私たちの住んでいる世の中は、違うのです。
悪意や怠惰心に基づいて犯罪を犯したりさぼったり、ずるをしたりする人が大勢います。
そんな彼らを「悪ではない」と言って野放しにしてしまうなら・・・どうなると思いますか?想像してみてください。私が解説しなくても、あなたは結果がわかるはずです。
そうです。どんどん世の中は荒れていき、あなたの大切なものは奪われていき、地球が地球全体でやろうとしていた計画は頓挫してしまいます。
未熟な社会では、善悪をはっきりさせ、裁きや隔離を行ったほうがよい。
悪人や怠惰な人の存在する社会においては、基本的に、「善悪」というものを明確に諭すべきです。悪いことをしている人に注意し、裁き、改善させるべきですし、小さな子供には善悪を教えるべきです。
注意しても改善しない悪人からは離れたり、悪人のほうを隔離(クビ、刑務所など)したり、すべきです。
これは、社会を継続・発展させていくためには必要不可欠なことなのです。
静観すべき場面も、あるにはある。
精神成長の段階として、異なる態度を取るべきときが、たしかに存在します。
《ゆるし》を理解するには、悪を弾劾せずに見守る必要がある。
1つ目はまず、《ゆるし》の観念を会得するときです。
人は、自分の身に起きた悲しい出来事や他人の悪行について、いつまでもクヨクヨし続けるべきではありません。そのため、悪さと言えるような行為を見たりこうむったとしても、それにいちいち反応せず、静観する心を得ることは大切です。
この《ゆるし》という気づきを得るためには、悪人や被害といったネガティブな事象がどうしても必要になります。そのため、それを経験させてくれた人に対して感謝をすることは、ある意味では間違っていません。
《奉仕》を会得するには、悪人や怠惰者にさえも慈愛を注ぐ必要がある。
2つ目は、《奉仕の精神》を会得するときです。
奉仕とは、(霊的真理としては)身を削るほどに他者のために尽くす・捧げることを指しますが、最も高度な奉仕精神に達するためには、悪人だろうが怠惰な人だろうが関係なしに、尽くす覚悟が大切です。
このプロセスに取り組む際も、相手が悪人か善人か、怠惰か働き者かということを気にせず、同じように平等に扱う必要があります。
《ゆるし》《奉仕》を会得したなら、悪人や怠惰者に慈愛を注ぎ続ける必要はない。
しかし、《ゆるし》にせよ《奉仕の精神》にせよ、それを体得したのであればその後は、社会モラルなどにのっとって悪人を悪として容赦なく扱ったほうが良いです。
そうでないとあなたが枯渇し疲弊してしまいますし、また、社会が崩壊してしまいます。
感情が成熟したなら、迷惑な近親者に耐え続けなくて良い。
少し具体的な話をしましょう。
スピリチュアリストには、「すべてのことは学びだ」と考え、近しい人々の迷惑な言動を耐え続けている人がいます。
それは、場合によっては正しい判断とは言えないのです。
あなたがすでに、他人の迷惑な行為や諸々の苦痛に対して寛大な心を身に着けたのであれば、あなたはもう、その人のそばに居続ける必要はありません。彼(ら)からの学びはもう終わっているので、より自分に合った気質の人々を選んで生活してよいのです。職場を変えたり、学校を変えたり、引っ越しをしたり、離婚をしたりしてよいのです。むしろ、そうすべきです。
価値観の異なる人々を無暗に攻撃すべきではない。
「敵」や「悪人」という捉え方は必要ですが、かといってしかし、むやみに他人を攻撃すべきではありません。
あなたとやりたいことややり方の違う人々に対して、むやみに攻撃する必要はなく、ただ距離を置いて互いの人生を尊重しあえばよいのです。
たとえば、キリスト教徒とイスラム教徒は、お互いに距離をおいて暮らせばよいのです。
あからさまな悪人は、弾劾すべき。
宗教論争の場合、多くの場合どちらも悪気はないので他の宗教を尊重し静観すればよいのですが、あからさまに悪行を行っている人々を、放置してよいわけではありません。
たとえば、あなたが政治家の不正を目撃したなら、それについてリークや弾圧をすべきです。だますような商売をしているスピリチュアリストを見かけたなら、その不正を当人や他の消費者にも指摘するべきです。
DVの父親や彼氏などに苦しんでいるスピリチュアル好きの友人がいるなら、この記事を見せてあげてください。彼のDVに感謝する必要はないのです。彼を警察に突き出したり、彼から離れて暮らしてよいのです。